椿説弓張月、読んだことある?

11. 為朝、捕らわれる

前:10. 為朝、親族たちの消息を知る

為朝(ためとも)、捕らわれる

多くの家族を一度に失った為朝(ためとも)は、すぐに何か動きが取れるわけでもなく、藤市(とういち)の好意に甘える形で荒川(あらかわ)にとどまっていました。藤市(とういち)は、猟師がとってきた獲物の皮を買い取ってそれを都に持って行くことを仕事にしているのですが、為朝(ためとも)はときどき来る客のひとりに違和感を感じます。

為朝(ためとも)「ひとり、妙な猟師がいるな。あの50歳くらいの…」
藤市(とういち)「彼がなにか?」
為朝(ためとも)「あの男が来るたびに、オレの弓の弦が切れるんだ。非常に丈夫なものだから、そうそう切れるはずがない。あの男に反応しているような」
藤市(とういち)「ははあ。言われてみれば変なところもありますな。あの男が持ってくる皮は、普通はあるはずの弓で射たあとが全くないんですよ」

為朝(ためとも)「よし、今度来たら、鳴弦(めいげん)の術を試してやろう。あいつが妖怪のたぐいなら、ダメージを受けるはずだ」

為朝は白木を使って弓を作り、これをビンと鳴らして正体を見破るために家の中で待ちました。やがて例の男がいつものようにここを訪れましたが… 男は何かに気がつくと、高笑いをし、そのまま家に入らず帰っていきました。

為朝(ためとも)「あっ、逃げた。やっぱりあいつは人間じゃない。追おう」

為朝はいつもの鉄の弓に持ち変えると、走ってこの男を追いました。男はのんびりと歩いているように見えるくせに、まるで馬が走るほどのスピードが出ています。簡単に追いつけません。滝の見える林のあたりで、為朝は男を見失いました。

為朝があたりを見回していると… 突如、正面の(えのき)の木陰からこの男が飛び出し、為朝の顔面をめがけて弓矢をビュンと放ちました。為朝はとっさに身をひねってよけましたが、矢は肩に刺さってしまいました。

男が二の矢を構えるよりも、為朝が五人引きの弓から極太の矢を射るほうが一瞬だけ先でした。男は胸を貫かれ、そのまま後ろに吹っ飛んで(えのき)の幹に縫い止められました。それでも男は絶命せず、手足をもがいて逃れようとします。為朝はこれに走り寄ると、刀でクビを切り落としました。

この謎の生物が死んだ瞬間、山が鳴り、滝はほとばしり、たいへんな風が吹きまくって、まわりは砂塵で真っ暗になりました。これがやっとおさまりかけたころ、タイマツを持った藤市(とういち)がこの場に追いついてきました。

藤市(とういち)「大丈夫でしたか!」
為朝「うん。こいつの正体はやはり妖怪だったぞ」
藤市(とういち)「(死体を見て)なんと醜い、恐ろしい姿じゃ… これが世に言う、山男(やまおとこ)というやつでございましょうな」

3メートル近い巨大な体格で、体は毛だらけ、そしてツメとキバがとがっていました。

為朝「なかなか油断のならん弓の腕だった。どうやらこいつが得意なのは、獲物の目を射抜くことのようだ。だから、はいだ皮には傷がなかったのだな。オレもちょっと危なかった」

滝の裏側の洞穴はこの妖怪の住処になっており、大量の獣の骨と、積み上げられた銭が発見されました。銭は為朝の許可を得て藤市(とういち)がもらい、残りの物品はすべて焼き捨てられました。バケモノを退治した男がいるというウワサが広まると為朝が身をかくす妨げになりますから、この件は二人だけの秘密となりました。


さて、為朝はこの晩から、山男にうけた矢の傷がはげしく痛むようになりました。毒が塗ってあったのです。藤市がいろいろ手をつくして治療をこころみますが、よくなる気配はありません。

藤市「これに一番効くのは、温泉ですな。加賀の石山にはよい温泉がありますから、しばらくそこで湯治をされるとよいでしょう」

為朝「なるほど、そうしてみようか」

藤市「私がお供できるとよいのですが、仕事を放っぽって行けるほど蓄えがあるわけでもない。私の代わりに、武藤太(ぶとうた)を行かせます」

武藤太(ぶとうた)藤市(とういち)の養子(もとは孤児だった)で、まともな勤めができずに都会をフラフラしていたのが、最近ギャンブルで一文なしになって藤市(とういち)のいる村に戻ってきていたのです。これからマジメになると誓って泣くので、藤市(とういち)は彼をとりあえず信用していました。

藤市はこの武藤太(ぶとうた)を呼んで言い聞かせます。「いいか、この人は私にとって大変な恩のある方のご子息だ。色々とお世話して差し上げろ。失礼をするんじゃないぞ」

武藤太(ぶとうた)「ハイ!」

こうして、為朝は武藤太(ぶとうた)に伴われて石山温泉に行きました。ここに7日間ほど滞在して養生しているうちに、確かに傷の痛みは少なくなり、腕の動きもやや自由になってきました。

武藤太(ぶとうた)は、表面的にはまめまめしく為朝に仕えましたが、腹の中では、この男は保元の乱に敗れて逃亡中の(みなもとの)為朝(ためとも)ではないかと見当をつけていました。藤市(とういち)はそうは言いませんでしたが、京にいたころウワサで聞いたのと、合致するところが色々あります。

武藤太「この男、左手のほうが確かに長いんだよな。たしか、逃亡者もそういう特徴だったはずだ。これはどうも、オレにやっと運が向いてきたということか」

武藤太(ぶとうた)はある朝、為朝に、オヤジのいる荒川に戻りたいと言い出しました。「オヤジの夢を見たんですよ。あのトシですから、何か健康を損なっていないか心配になってきて」

為朝「うん、行ってやってくれ。親孝行は何よりいいことだ。用が済んだら、こっちにはゆっくり戻ってこればいいからな」

武藤太は家には帰らず、かわりに、土地の領主である佐渡(さどの)重貞(しげさだ)の屋敷に行き、逃亡者が石山温泉に潜伏している旨を密告しました。重貞(しげさだ)はこの情報に喜び、300人の隊を編成すると、武藤太に案内させて為朝のいる温泉宿に向かいました。

捕獲部隊が到着したとき、為朝はちょうど湯船につかってぼけっとしていましたが、急に浴室の周りが騒がしくなってきて、どうも包囲されたらしいとすぐに気づきました。

為朝「あっ、わかった、武藤太が裏切ったのだな」

兵たちが浴室になだれ込んできました。為朝は裸のまま、片っ端から兵を投げ飛ばし、蹴り殺し、クビをねじ切って暴れまくりました。一緒に風呂に入っていた観光客たちも、騒ぎに巻き込まれて重傷を負うものがたくさんいました。湯が血の色に染まっていきました。

為朝「武藤太! どこだ! お前が売ったのだろう! 恥知らずめ、オレ自らがぶっ殺してくれよう」

為朝は手近な柱を引っこ抜き、浴室を壊して外に出ると、これを振り回していよいよ荒れ狂いました。しかし、肩の傷が完治していなかったために、だんだんと体の力が弱まっていき、最後は一度におしかぶさってきた兵をはねのけることができずに、縛り上げられてしまいました。30人の死者と5、60人の負傷者を出して、やっと一人の丸腰の為朝を捕らえることができたのでした。


為朝はこのまま京に連行され、服を着せられ、公卿(くぎょう)殿上人(てんじょうびと)たちの前に引き据えられました。このころにはもう為朝(ためとも)は堂々と落ち着いており、どんな処分も受け入れる覚悟をすっかり定めています。日本一の勇士と呼んで差し支えないこの男のオーラは、見る者をあらためて圧倒しました。

公卿「手負いでさえなければ、何千人の兵を差し向けても、こいつを捕らえることはできなかっただろうな…」

さっそく為朝の処分について会議が開かれました。一番強硬に彼の死刑を主張するものは、もちろんあの男、信西(しんぜい)入道です。

信西「味方の兵をいちばん多く殺したのはこの男だ。彼が死刑でなくてなんとする」

しかし、他は必ずしも同じ意見ではありません。中でも関白がこう発言します。「これほどの勇士を殺すのはまことに忍びない。もしも、彼がのちに反省して我々の味方になってくれれば、この戦力は絶大ではないか。帝の宝とも呼べよう」

結局、この発言が効いて、為朝への処分は、伊豆への島流しと決められました。

信西「分かりました… しかし、彼の怪力を持ってすれば、護送中になんとして脱走してしまわんとも限らん。彼のヒジの筋を切断して、弓を引けなくしてしまってからにしていただきたい!」

信西のこの意見は採用されました。ヒジの筋を切る仕事は、兄・義朝がこれを命じられて行いました。為朝はずっと黙って、一度も口を開きませんでした。


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