里見八犬伝のあらすじをまとめてみる

129. お地蔵ばっかりの話

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■お地蔵ばっかりの話

悪僧(あくそう)たちがさらった10人の法師たちは、実は10体の石地蔵だったのでした。かついで帰る途中にそれらは石に戻ってしまったため、悪僧(あくそう)たちはその場で潰され、身動きができなくなったというわけです。

小山(おやま)朝重(ともしげ)「で、そいつらをトラックにのせてここに運んである」
丶大「えっ、そんなものを」
小山(おやま)「その法師たちを、正体はともかく、まずはお返ししないといけませんからな」

寺の境内に、クレーンでひとつづつ、人間に地蔵が貼り付いた奇妙なオブジェが運ばれました。悪僧(あくそう)たちの苦悶の表情は、なかなか見るにたえません。

地蔵のひとつには、経と50金の入ったフロシキがくくりつけてありました。照文「あっ、あれはまさしく、星額(せいがく)和尚にあげたものですよ。本当にお地蔵様だったんだ」

逸疋寺(いっぴきじ)の前の住職、未得(みとく)がこの石地蔵の由来について説明しました。

未得(みとく)「ここの荒れ寺は、もともと六道山(ろくどうさん)能化院(のうげいん)といいます。結城の先祖が建てたものです。さきの戦いでこのとおり焼けてしまったんですが」
丶大「能化院(のうげいん)星額(せいがく)どのは、確かにそこの住職だと名乗っていた」
未得(みとく)「そう、この10体の石地蔵は、今の国主、結城(ゆうき)成朝(うじとも)さまが、結城の合戦で命を落とした義烈の魂をとむらうために作らせたものなのですよ。この寺を再建して、10体の地蔵像も安置するつもりでした。しかし…」

未得(みとく)は、向こうの木の下に縛られている徳用をチラっと見て、

未得(みとく)「あのバカ弟子の徳用がワーワーと騒いだため、結局、この寺は再建されず、地蔵も逸疋(いっぴき)寺のほうに安置されることになったのですよ。自分の寺がナンバーワンでないと気が済まなかったのですな…」

未得(みとく)「ともあれ、あの潰された僧たちはもう、存分に悪報を受けたといえましょう。丶大どの、どうか慈悲をもって、彼らを救ってあげてください(涙)」

丶大はこの不可思議さに深く感動し、やおら立ち上がると、地蔵オブジェに向かって静かに地蔵経を読誦(どくじゅ)しました。最後に「ナムアミダブツ」とつぶやくと、やっと地蔵は僧の体を離れてゴロンと転がりました。

(余談ですが、星額(せいがく)だった地蔵の持っていた経と50両は、のちに逸疋(いっぴき)寺に寄贈されました)

信乃「そうだ、未得どのならご存じでしょうか。『浄西(じょうさい)』という名の方を知りませんか。我々に危険を教えてくれた、ありがたいお地蔵様をつくられた方のようなのです」

未得(みとく)「…それをご覧になりましたか。知っていますとも。よーく知っています。あなたたちの主君の先祖、里見(さとみ)季基(すえもと)どのの馬の口取(くちと)りだった人物ですよ」

丶大・照文・八犬士「!」

未得は、この人物にまつわる、やや長い話をはじめました。

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彼の俗名は十十八(とどはち)。かれの忠義は強く、結城の合戦で季基(すえもと)どのが壮絶な最期をとげられたときも、馬のそばを離れませんでした。そして、自分もケガをしているのに、敵のはずかしめを受けないよう、主の亡骸(なきがら)をかついで山に入り、秘かに遺体を火葬しました。

戦が済んでしばらくしたある夜、私がまだ一介の坊主だったころの逸疋(いっぴき)寺に十十八(とどはち)が現れました。主君の遺骨、刀、鎧とカブトを持っていました。布施を差し出し、季基(すえもと)どのがどういう人物であったのかを切々と説き、この遺骨を葬らせてほしいというのでした。

結城側についた朝敵(ちょうてき)を公式に葬るのは危険なことでしたから、彼の願いは聞き入れられませんでした。そのかわりに、別の場所に土地を買って、そこに墓をたてて秘かに(あるじ)と遺品を葬り、供養するのがよいだろう、とアドバイスがあり、彼はのちにそうしました。

もうひとつ、彼は、出家したいという強い願いも持っていました。当時の住職(わたしの師匠)はこの願いを受け入れ、彼を剃髪し、得度(とくど)を行い、そして浄西(じょうさい)という法名を授けたのです。

彼は左右(まて)川の近くに小さな墓地を買い、お堂を建て、石工に頼んで地蔵をつくり、それからは毎日、朝から晩まで、ひたすらこの地蔵に向かって経をあげ続けました。

さて、浄西はこうして浮世を捨てたのですが、彼には実は妻と子がありました。彼が出家して10年経ったとき、妻は故郷で病死しました。その後、子はひとり、父の消息をたずねてこの結城の地まで放浪してきました。

浄西は、そのころ住職を継いでいた私のもとにこの子を連れてきて、口少なに、こいつも坊主にしてやって欲しい、と頼んできました。浄西は本当にすっかり現世の縁を絶っていましたから、私はその子を預かるほかありませんでした。この子には影西(えいさい)という法名を授けて、お経を学ばせるところから始めてみたのですが…

影西(えいさい)は非常に才能がありました。一を聞いて二や三を知るほどの賢さで、またたくまに私の教えを吸収しました。その上、親孝行の心がきわめて強く、自分の食事を必ず半分のこし、早朝のうちに左右(まて)川まで行って親に与えるような尽くしようなのです。自分が痩せ細るのもお構いなしでした。

やがて、浄西は、目が不自由になりました。影西(えいさい)はこれを悲しんで、逸疋(いっぴき)寺を出ると、左右(まて)側のお堂に住みつき、乞食をして親を養うという暮らしをはじめました。私は何度も寺に親を連れてきなさいと行ったのですが、浄西(じょうさい)自身が主の墓から離れようとしないのだから仕方がありませんでした。このとき、影西(えいさい)はまだわずか13歳です。

しかし、暑さ、寒さにさらされながら浄西(じょうさい)はその後も弱っていき、やがてそこで死にました。影西(えいさい)は深く悲しみましたが、親の遺言に従い、この場に浄西(じょうさい)亡骸(なきがら)も埋葬すると、墓標の代わりの松を植えました。浄西(じょうさい)の葬式には、彼の人徳をしのぶ村人たちが何千人も集まりました。

そうして立派に親を看取った後、影西(えいさい)は寺に戻り、勉強を再開しました。相変わらず彼の才能はとてつもなく、数年後には、下総(しもうさ)には学問で彼に並ぶものなしと評判になってしまいました。

そのころ、私は住職を弟子にゆずって隠居することを考え始めました。跡継ぎの候補はダンゼン影西(えいさい)のつもりだったのですが、兄弟子の徳用(とくよう)のほうが城の上層部に知人(悪友)が多く、また何より、結城と京の関係修復を取り持ったという手柄がありましたから、政治の力学が働いて、結局は彼が住職を継ぐことになったのです。心ある僧侶たちはみんなこの結末に落胆しました。

影西(えいさい)は、その後京に去り(徳用からの身の危険も感じたらしいです)、今は権僧正(ごんそうじょう)というとても偉い身分のお坊さんになっていますよ。途中から影西(えいさい)の話になった感がありますが、ともかくこれが浄西(じょうさい)の素性についてのお話です。

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信乃「…なるほど。これまた、大変なお話です。里見にゆかりの方だったとは…」
毛野「きのう紀二六さんがここで見たというお坊さんのマボロシも、たぶんこのお地蔵ですよ」
照文「それなら、私や親兵衛どのの道案内をしてくれたのも、このお地蔵様か…」
丶大「いや、実にありがたい話だった」

丶大は、未得に向かって、将来に影西(えいさい)に会う機会があったら、自分たちが謎の法師たちに遺骨と刀を受け取ったいきさつを伝えて置いてくれるよう頼みました。

丶大「左右(まて)川のお堂には、もう遺骨と刀はないことになりますが、ヨロイはまだ埋まっているのですから、浄西(じょうさい)どのは寂しくないはずです。この点も伝えておいてあげてください」


さて、この後、捕まえておいた捕虜たちをどう扱おうか、ということになりました。

親兵衛「基本、みんな解放してあげればいいんじゃないでしょうか。孝嗣(たかつぐ)どのたちを害した長城(おさき)枕之介(まくらのすけ)は死んでしまったんですし、他は結局私たちを傷つけることがなかったんですから」

道節「ああ、我らに罪がないことだけ、結城の殿が分かってくれるんならもう十分だ。俺も、解放してやればいいと思うぞ。大体、今後こいつらを裁くかどうかは結城殿が決めるのであって、俺たちはこいつらの身柄をしかるべき所に渡すまでだ」

残りの全員もこの意見に賛成しました。

小山(おやま)「わかりました。まあ、とりあえずは彼らはこのまま城に引いていきますよ。それはともかく、みなさん、ぜひ殿に会っていってあげてくださいよ。歓迎しますよ」

犬士たちは、これをありがたく思いながらも、断らざるを得ませんでした。何より先に、里見の殿のほうに会わなくてはいけないのですから。先に結城の殿にあいさつするのでは、自分たちの殿をないがしろにすることになりかねません。

小山(おやま)「確かにそうですな。せめて近くで簡単な宴会でも持ちたいものだが… それだと、私が罪人を運ぶのをサボっていることになってしまう。なかなか、ままならないですね。仕方ない、いつかまた機会があるのを楽しみにしていますよ」

犬士たち「ええ、ではさようなら」

こうして里見の一行と小山(おやま)朝重(ともしげ)は、能化院(のうげいん)の跡地をそれぞれ後にしたのでした。

その後、結城(ゆうき)成朝(なりとも)は、小山の報告をうけて、里見にはものすごい人材がそろっていることに感動し、「立派なやつらに、会いたかったものだなー」と残念がりました。先祖を弔ってくれたお礼も言いたかったですしね。

さらにその後、徳用(とくよう)堅名(かたくな)根生野(ねおいの)は厳しい取り調べを受けました。最終的に、徳用とその腹心たちは、ムチ打ちの上、国外に追放されました。堅名(かたくな)根生野(ねおいの)は、親たちの昔の手柄に免じて、死刑だけは免れたのですが、その後すぐに熱病にかかって結局は死んでしまいました。


後日談として、その後、逸疋(いっぴき)寺や能化(のうげ)院がどうなったかを一応語っておきましょう。

逸疋(いっぴき)寺の未得は、京のある法親王(ほっしんのう)のもとで権僧正(ごんぞうじょう)をつとめる影西(えいさい)に、「コレコレの事情なので、戻ってきませんか」という手紙を書きました。影西(えいさい)は、今の地位をあっけなく捨てると、喜んで逸疋(いっぴき)寺に戻ってきて住職を引き継ぎました。寺は過去にないほど栄え、布施がジャンジャン集まりました。

その後しばらくして、未得が安らかに息を引き取りました。このときにも、彼の徳を慕った人たちがジャンジャン布施をしてくれました。

これらの布施によって、影西は能化(のうげ)院の再建をはじめることができました。住人たちはよろこんで工事を手伝い、三年ほどで、往時を上回るほどの大伽藍がバッチリ完成しましたとさ。そこには例の10体の地蔵菩薩像が安置されたことは、言うまでもありません。また、左右(まて)川の近くのお堂もピカピカに作り直されました。

お地蔵様が里見季基(すえもと)の遺骨と遺品を守ってくれていた、という縁から、結城と里見は交流を取り戻し、やがて深い友好関係を築いていくことになるのですが、それは(のち)の話です。それは置いておき、あれから犬士たちがどうしたかに話を戻していきましょう。次回からね。


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